【万世大路とは?】

出典:福島河川国道事務所明治9年山形県初代県令三島通庸により「交通の整備が県を発展させる」として多数の反対を押し切って福島県との県境をまたぐ当時としては異例の大規模な道路の着工に踏み切った。途中には苅安、栗子山、二ツ小屋の3本の隧道を含んでいたが中でも県境に掘られた栗子山隧道は866mという当時としては考えられないような長大な隧道であり地盤の固さとあいまって難工事となったが奇跡的にも1名の死者も出さず日本最長の隧道として完成した。栗子山隧道掘削の際に福島県から隧道を約100m延長して線形を改良する提案が出されたことがあった。この際栗子山隧道の費用を全て持つことになっていた山形県は難色を示し延長による工事費用を福島県で持つならばよいと回答した。検討を重ねた結果これは廃案となり当初の予定に従って掘削が行なわれた。そして明治14年の開通式の際にこれに参加した明治天皇により「萬世ノ永キニ渡リ人々ニ愛サレル道トナレ」という願いを込めて萬世大路と命名された。当時はまだ自動車はなく道路を通る最大の物といえば馬車であったがそれには充分過ぎる程大きな道であったと伝わる。この明治天皇の巡幸の後、当時の太政官公達により國道3等に指定された。さらに明治18年には、当時の内務省により、國道39號に指定され、首都圏と東北地方を結ぶ重要な幹線として利用されてきた。しかし、明治32年に奥羽本線が開通すると、旅客や貨物は鉄道によって運ばれるようになり、以降利用者が徐々に減ってきた。(wikipeiaより)

【万世大路の歴史】

出典:東北地方整備局

はじめに

●往時置賜地方から、赤浜を経て明神峠を越え二ツ小屋の東に出て、杉ノ平を経由し堰場に至り福島町陣場に通じた細道があったと伝えられている。この路線は上杉入部以後通行を禁止したが、庶民は人目を避けて搬出入の便にしたということである。また平安時代の大同2年(807年)徳一上人が信夫郡庭坂より板谷を経て明神峠を越え、赤浜より置賜盆地にはいった記録もある。

戦国時代

●伊達政宗(儀山)は、伊達氏の勢力を最も伸張した藩主で、米沢に本拠を構えた天文年間以後に、本支城をつなぐ軍事的、政治的意味をもって当然道路政策をも徹底したと思われる。この時代に米沢より現奥羽線に伴う集落、関根、市野々、大沢、峠を経由して板谷に抜ける新道を開削し、庭坂を経て大森城(福島)赤館城(桑折)等の連絡路としたと考えられ、この道を米沢街道と唱えたものと思われる。

江戸時代

●徳川幕府成立後、寛永12年(1635年)参勤交代制が始まると、米沢街道はあまりにも険阻なため、嘉永3年(1850年)に屈曲部および勾配を是正したが、もち論車の通れる道ではなかった。以来明治初期まではこのような道路状態が続いた。

第一次改築

●福島県11丁目元標より米沢今町まで延長約50kmの区間を、車馬が自在に通行できるように福島、山形両県協議の上、工事施行境界点を栗子隧道福島口より東へ1町の地点と定め、明治9年11月着手し工費263千円を費やして同14年9月完成に伴い、この国道を羽州街道と布告されるよう福島、山形両県令が連署で申請した。

万世大路誕生

●明治14年10月3日明治天皇が東北、北海道御巡幸に際し帰途米沢より新道をお通りになり、その日に開通の式典が行われた。翌11月太政官公達により国道3等に指定され、明治15年2月9日勅により万世大路と名付けられた。

13号線になるまで

●明治18年2月内務省告示第6号で国道39号と定めたが、大正8年道路法の制定に伴って、大正9年4月1日内務省告示により第5号国道と改まり、昭和27年12月4日1級国道の路線を指定する政令第477号によって1級国道第13号路線と変更、昭和40年3月29日道路法(昭和27年法律第180号)第5条第1項の規定に基づき、政令第58号により昭和40年4月1日から一般国道13号線となった。

鉄道開通

●万世大路完成後18年間運輸交通は激しかったが、明治32年南奥羽線(福島〜米沢)鉄道の開通によって人、貨物の輸送が途絶した。

拡幅工事

●人・車・馬だけの交通のためには勾配も適当で幅員も十分であったこの道路も、自動車を使用するようになると不適当とならざるを得なかった。また隧道もいわゆる素掘りで屈曲、勾配があり改良の必要が迫られたので、昭和8年4月国の直轄工事として、当時の内務省仙台土木出張所の手により着工された。工事区間は福島県側新沢橋左岸付近から、山形県側滝岩上橋に至る山間部延長14373mの大工事で、総事業費678,000円を投じ昭和12年3月31日完成した。かくて屈曲多く急勾配であるが、一応自動車交通の可能な道路が完成し、裏日本から京浜地方に抜ける幹線輸送路としての役割を今日まで果たしてきた。

栗子ハイウェイの建設

●しかし局部的な補修工事が行われているにもかかわらず、土石の崩落樹木の繁茂により狭隘であり、また他の1級国道に比し著しく高い標高を経過しているため、冬季5箇月間は2mを越す積雪による通行を断念しなければならない現国道が最近の急激な自動車交通の増加に追随出来なくなってきたのはしごく当然な結果といわねばならない。ここに建設省は、道路整備10ヵ年計画の一環として、国道13号線のうち、最後に残された最大の難関栗子国道の全面的な改良工事に着手するに至った。

参考文献

●栗子トンネル工事誌 東北地方建設局福島工事事務所 〜沿革〜より

【栗子ハイウェー建設当時の万世大路】

坑口はじめに

●国道13号線は福島市を起点とし、奥羽山脈を横断して秋田市にいたる延長315.4kmの幹線道路で、旧道状況は以下の通りであった。この地区は道路構造令、第二種山地部の基準となっているが、その最低基準に対する現況を対比してみると

(1)幅員

●戦前の改良工事で有効幅員6.0mであったが、5.0m位になっていた。

(2)線形

●道路構造令の限度曲率半径100m、視距70m以下の数は粁当り平均19箇所もあった。

(3)勾配

●勾配6%を越える坂の延長と、全延長との比は0.47で、全延長の半分近くあり、県境(栗子隧道)を頂点として福島県側の平均勾配が4.2%、山形県側が5.2%であった。

【交通事情】

●13号線は昭和11年度第二次改築工事完成後、十分な維持補修が行われずに至ったため、道路の損傷がひどく、福島〜米沢まで延長44.5kmに要する走行時間は約140分で、平均時速19km/hという低さであり、更に12月より4月までの5ヶ月間は積雪のため交通不能の状態にあった。

【参考文献】

●栗子トンネル工事誌 東北地方建設局福島工事事務所 〜第一編調査設計・第一章栗子峠について・第三節旧道状況〜より

万世大路研究会

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